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東京高等裁判所 昭和38年(う)1239号 判決 1964年2月17日

被告人

藤沢理平

外一名

主文

原判決を破棄する。

被告人等を各懲役二年に処する。

被告人等に対し原審における未決勾留日数中三〇日を右本刑に算入する。

原審及び当審における訴訟費用は、被告人等の連帯負担とする。

理由

控訴趣意第二点及び第四点について。

所論は、原判決は「そのままの状態で車を進行させるにおいては、右池内が路上に墜落し、そのため傷害の結果が発生する危険を認識しながら」……「池内をして危難を避けるため該車から飛び降り顛倒させて頭部等を殴打せしめ」と判示し、未必の故意については「墜落の認識」を論じながら、結果たる行為については「飛び降り」として池内の意思による行為を認定しているのであるが、仮に原判決認定のように「墜落の危険の認識」があつたとしても、池内みずからの意思によつて「飛び降り」ることを予見していたという事実も証拠もないのであつて、池内自身の意思が介在して行われた「飛び降り」という池内の行為の結果にまで右認識の責任が及ばないことはいうまでもなく、他面右墜落の危険の認識をもちながらの自動車の進行という行為と、池内が自分の意思で「飛び降り」たことによる結果との間では、池内の意思が介在することによつてその因果関係は切断されるのである。もつとも因果関係について言えば、原判決は「右池内をして危難を避けるため該車から飛び降り」と判示し、あたかも被告人等の自動車の走行と池内の飛び降りの間に必然的な因果関係があるかのようであるが、池内が「危難を避けるため」飛び降りたのか、自動車が減速したので(記録によれば、池内が飛び降りる直前、車は桜屋前十字路で徐行している)「安全と思つて」飛び降りたのか、あるいは酒に酔つていて(記録によれば、池内は当日酒に酔つていたことが推測される)「無暴にもあえて」飛び降りたのか、池内の飛び降りの動機を断定的に判断すべき証拠は何もない。すなわち、原判決は、未必の故意及び因果関係についての解釈を誤り、証拠に基づかずしてなした事実の誤認ないし審理不尽のそしりを免れないというのである。

よつて検討するに、原判示によれば、被告人等は、小型四輪貨物自動車を運転して時速三十粁で進行中、本件被害者が右車の荷台に積んであつた木箱に両手をかけ(記録によれば、ガソリンタンクに両足をのせて)車にとりついているのを認めながら、あえて疾走を続けたというのであるから、このような場合、その人がいつ身体を支えきれなくなつて車から転落し又は自分で飛び降り転倒して負傷をするかも知れない危険が通常予測されるので、たとえそれが知らぬ間に自分で勝手に車にとりついたものであるにせよ、自動車を運転する者としてはよろしくすぐ車を停止する等してその人を無事下車させたうえ前進を続けるよう措置を講じ、もつて人の生命、身体の安全を図る法律上の義務があるものといわなければならないのに、被告人等は、「かまわないからいつちやえ」などと言い、そのような措置をとらなかつた以上、被害者が自己の意思によつて飛び降りたか、又は自己の意思によらないで支えきれずに落ちたか、あるいはその飛び降り行為が本人のどのような動機に基づいたか、そのいずれであるとしても、その結果の受傷につき、被告人等に少くとも未必の故意がある限り、あたかも故意につき落して傷害を与えたと同じように傷害致死の刑事責任を免れるべき筋合ではないのである。ところが、被害者の池内が自己の意思によつて飛び降りたか又は自己の意思によらないで支えきれずに落ちたか少くともそのいずれかによつて、被告人等の運転する疾走中の自動車から離脱して地上に転倒し本件の傷害を受けるにいたつたことが認められることはすでに説明した通りであるけれども、被害者が車から離脱した原因が右のいずれであつたか又飛び降りたとしてもその動機いかんは原判決摘示の証拠及び本件記録にあらわれた全証拠によつてもこれを確認するに由なく、池内が原判示のように危難を避けるため飛び降りたと断定するに足る証拠はないのである。それにもかかわらず、原判決が「疾走を続け……池内をして危難を避けるため該車から飛び降り顛倒させて頭部等を殴打せしめ云々」と判示し、池内を乗せたまま自動車の疾走を継続し池内をして危難を避けるため車から飛び降り転倒するに至らしめたことをもつて本件傷害の原因たる積極的暴行行為と認めたものと解せられるのは、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認といわなければならない。原判決はこの点において破棄を免れない。

右の通りであるから、その余の控訴趣意については説明を加えるまでもないところであるが、後に当審の判示する犯罪事実に関係もあるので、とくに控訴趣意第五点についての当裁判所の判断を述べておく。

控訴趣意第五点について。

所論は、原判決は、被告人藤沢において被告人滝沢に対し「構わないからいつちやえ」等と申し向け、ここにおいて被告人等は共謀のうえ、即時停車等の措置をとることなく……と認定しているが、近藤利裕が最初車にとりついている池内に気づいてから桜屋前十字路手前約一〇米までの僅か十数秒間に近藤の一一月二一日付調書に記載されているような、(イ)近藤が振返つて「両手の指」を見る。(ロ)それを見て「三楽の主人か店の者が飲食代を請求しについて来たんだな」と思う。(ハ)そこで「誰かがボデイにつかまつている」という。(ニ)三人が振返る。(ホ)藤沢が「いいから、いつちやえ」という。(ヘ)そこから二、三〇米走る。(ト)近藤がもう一度振返る。(チ)「まだぶらさがつている。車を停めてまけさせるか、いけなきやひつぱたいてしまえ」という。(リ)藤沢が「いいやいいや、いつちやえ」という、といつたような一連の出来事を行うことは到底物理的に不可能でもあるし、又この間の出来事についての証拠と見られる被告人等及び近藤利裕、原田英三四名の供述は、転々としてかつ相互にくいちがつており、原判決はその間どの部分を証拠とし又どの段階で共謀が成立したと認定しているのか等明らかでなく、要するに原判決の共謀の認定は厳格な採証に基かない重大な事実誤認であり又ずさんな審理不尽でもあるというのである。

しかしながら、(証拠)によれば、本件自動車は、原判示のように、被告人滝沢がこれを運転して三楽前を出発し、平和町通へ出て二、三〇米ぐらい来たとき、同乗していた近藤が「誰かぶら下つているんぢやないか、手が見えるぞ、飲屋のおやじぢやないか」といつたので、被告人滝沢は左方からふり返つて見て池内が車体右側の木箱に両手をかけているのを認める、又そのことを聞いた被告人滝沢に対し「かまわないから、いつちやえ」と申向ける、そこで被告人滝沢はこれに応じてそのまま疾走を続ける、というわけで、ここに被告人両名の間に、池内が車にとりついているのにかかわらずそのまま車を走り続けることのいわゆる共謀関係が成立したと認められるのである。たとえそれが所論のように数十秒間のとつさの間の出来事であるとしても、そのためにそれが物理的に不可能だとする所論は全く当らない。

以上の次第により、刑事訴訟法第三九七条第一項第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により更に当裁判所において判決することとする。

(当裁判所の判決)

一  罪となるべき事実

被告人藤沢は長野県上水内郡牟礼村所在の株式会社藤沢商店の専務取締役としてその業務全般を統轄主宰していた者、被告人滝沢は同商店で米穀肥料販売の外交等の業務に従事していた者であるところ、昭和三六年一一月一〇日午後一一時二〇分ごろ、須坂市大字須坂三六七番地料理店三楽こと池内太之已方で、同じく藤沢商店に勤務する近藤利裕、原田英三と共に飲食し、午後一一時四〇分過ごろ同所を引上げるに際し女中玉井多嘉子から飲食代金一四四〇円を請求されたのに対し、藤沢はこれを不当な額であるとし内一〇〇〇円だけの支払をなしその余の代金の支払をしないまま、付近に停車させてあつた小型四輪貨物自動車(長四そ三三四七号)に全員乗込み、滝沢がこれを運転し、平和町通りを須坂駅方面に向け時速三〇粁ぐらいで進行中、被告人等を追いかけてきた池内が車の右側荷台に積載してあつた空瓶入木箱に両手をかけガソリンタンクに両足をのせて車にとりついているのを認め、そのままの状態で進行させれば、池内がやがては車の振動、疲れ等のため身体を支えきれずに落ちるか又は飛び降りるかして車から離脱し、路面に転倒して負傷するかも知れないことを認識しながら、このような場合、自動車を運転する者としては、すぐ停車等して車にとりついている者を無事下車させたうえ前進を続けるよう措置を講じて人の生命、身体の安全を図るべき法律上の義務があるにかかわらず、藤沢は「かまわないから、いつちやえ」等と滝沢に申向け、滝沢がこれに応じ、ここに被告人等は共謀のうえ、停車等の措置を講ずることなく、あえて時速約三五ないし四〇粁(途中県道長野須坂線との交差点―桜屋前の十字路―手前付近で時速三〇粁ぐらいに減速)で進行を続けたため、間もなく同市北横町一六四番地渡辺茂蔵方前三叉路上で、池内をして、身体を支えきれなくなつて、落ちたか又は自分で飛び降りたかして車から離脱して路上に転倒した結果、頭蓋骨折、脳挫創等の傷害を受け、よつて昭和三七年三月一八日同市大字須坂一三三二番地須坂病院で死亡するに至らせたものである。

一  証拠の標目(省略)

一  原審弁護人は、本件は被害者の自傷行為を被告人等が幇助したに過ぎないものであり、又そうでないとしても被害者の承諾による傷害行為であるから違法性を阻却すると主張しているが、前記説明の通り、本件は被害者の自傷行為でもなく、又本件負傷につき被害者の承諾があつたことを認めるべき何らの証拠もないから、これらの主張は採用の限りでない。

一  法令の適用

刑法第六〇条、第二〇五条第一項、第二一条、刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条

(その余の判決理由は省略する)(裁判長判事足立進 判事栗本一夫 判事上野敏)

弁護人石島泰外一名の控訴趣意

第二点 法令解釈の誤まり。

原判決は、「未必の故意」並びに「因果関係」についての解釈を誤まり、或いは、証拠にもとずかざる判断をしている。

(一) 本件公訴事実は、

「被告人等は共謀の上そのままの状態にて車を進行させるにおいては池内が路上へ転落する危険のあることを予見しながら」

「間もなく……右池内を路上へ転落させ」

とある如く、被告人等が、自動車を走らせることによつて池内を転落させたという事実主張の上に立つて、その「転落の予見」即ち、「未必の故意」を論じたのであつた。

然るに原判決は、

「そのままの状態で車を進行させるにおいては、右池内が路上に墜落し、そのため傷害の結果が発生する危険を認識しながら」……

「右池内をして危機を避けるため該車から飛び降り転倒させて」と、前段、「未必の故意」については、検察官と全く同じく、「墜落の認識」を論じながら、結果たる行為については、「飛び降り」と、池内の意思による行為を認定しているのである。

(二) ここに、くどくどと「未必の故意」論を論ずるまでもなく、右のような認定が、到底「未必の故意」を以て論ずべき場合でないことはいうまでもないであろう。

そもそも被告人等に「未必の故意」のなかつたこと後に論ずるとおりであるが、仮りに原判決認定の如き「墜落の危険の認識」があつたとしても、被告人等は、池内が自らの意思によつて「飛び降り」ることを予見していたという事実も証拠もないのであつて、墜落という、池内の意思にかかわらない、云わば、被告人等の自動車の進行という行為の純粋に物理的な結果が自然必然的に生じたのであればともかく、池内自身の意思が介在して行われた「飛び降り」という池内の行為の結果にまで、右認識の責任が及ばないことはいうまでもない。

(三) このことは、他面、「因果関係論」の立場でいうならば、被告人等の右「墜落の危険の認識」をもちながらの自動車の進行という行為と、池内が、自分の意思で「飛び降り」たことによる結果との間では、池内の意思が介在することによつて、その因果関係は切断されているのである。

(四) 原審弁護人が「自傷行為」を論じているのも、右の趣旨ではなかつたかと考えられるのであるが、原判決はこれに対する判断の中で、

「この飛び降りは、被告人等において傷害の結果が発生する危険があることを認識しながら、そのような結果発生を意に介せず、無謀にも敢えて疾走を続けたため、右池内がこれに驚いて危難を避けようとしておこつたものである」

と判示し、又判決理由の中でも

「右池内をして危難を避けるため該車から飛び降り」

と判示している。

これは、前述因果関係についていえば、被告人等の自動車の走行と、池内の飛び降りの間に恰かも必然的な因果関係があるかの如くであるが、然し、看過し難い事は、

右池内が、「これに驚いて」とか「危難を避けようとして」飛び降りたものだとか認定すべき証拠は全然皆無だということである。

池内が、「これに驚いたり」「危難を避けようとして」或いは「危難を避けるため」飛び降りたのか、先に述べたように、自動車が減速したので、「完全と思つて」飛び降りたのか、或いは、後述するように酒に酔つていて、それこそ「無暴にも敢えて」飛び降りたのか、この間の事情、池内の飛び降りの動機を断定的に判断すべき証拠は何もないのである。

従つて、そのような判断は、全く「証拠にもとずかざる認定であり、更に、そのような証拠にもとずかない認定を前提とする右のような判断が、前記被告人の行為と池内の意思による飛び降りの結果との間に因果関係の存在することの証明にならないことはいうまでもないであろう。

第四点 事実誤認と審理不尽(三)

原判決は、池内が、

「危難を避けるため該車から飛び降り」た。と認定している。

然しながら、先に第二点でも若干触れたとおり、池内が「危難を避けるため」に「飛び降り」たという証拠は何もないのである。

即ち、このこと自体証拠にもとずかずしてなした事実の誤認である。

のみならず、原審が以下に述べるような諸点につき更に慎重な審理を遂げたならば、却て池内の飛降りの動機を他に、即ち被告人の責任を切断する他の動機に求めることになつたのではないかと思つわれる。

(1) 前述のとおり、池内の姿勢は、足をガソリンタンクにかけており、進行中の自動車から危険をおかしてまで飛び降りようと決意させるような「危険な姿勢」ではなかつたし、それ程の「疲れ」もなかつたと推定されること。

(2) 道路はコンクリートの平坦な道路であり、「車の振動」は殆んどなかつたこと。

(3) 前述のとおり。池内が飛び降りる直前、車は、桜屋前十字路で徐行していること。

(4) 小林千恵子の十一月十三日付司法警察員調書によつて、池内は当日飲酒していた事実が認められること。即ち、

「主人も二階の宮本さんののお座敷に来て一諸に飲みました」

という供述がある。

尤も、同人の供述によれば、池内は「盃に四、五杯飲んで」あとは三味線をひいて「一時は賑かにさわいだ」というので、三味線をひき始めた後の飲酒量はわからないが一方玉井多嘉子の同日付司法警察員調書によると、同女はその宮本の席で、ついに帳場へ行つて寝てしまう程に酔いつぶれている。宮本の席の全体の酒量が推測されようというものである。

而も、池内は、右飲酒後、風呂屋へ行くと称して事故の直前店へ帰るまで一時間余り外出している。この間の池内の行動は全く不明であるが、この間飲酒していたことも想像される。

而も、小林千恵子の前記調書中の供述によると、池内はその日「朝から御飯を食べていない」というのである。

自動車へとびのつたと思われることなどから、池内自身が相当酔つていたのではないかとも推測されるのである。

これらの状況を綜合すると、池内の飛び降りは決して不可避なものでなく、池内は、徐行によつて安全と思つたか、酔つたまぎれでか、飛び降りたことも十分に可能性があり、少くともこれらの状況を無視して、軽々に「危難を避けるため飛び降りた」と断定する如きは、事実誤認、審理不尽の譏りを免れない。

第五点 事実誤認と審理不尽(四)

原判決は、

「被告人藤沢において被告人滝沢に対し「構わないからいつちやえ」等と申し向け、ここにおいて被告人等は共謀のうえ、即時停止等の措置をとることなく……」

と認定している。

然しながら、この点の証拠関係は、しかく単純ではないのである。

先に第三点でも触れたように、近藤が最初池内に気がついてから、桜屋十字路手前の減速までの時間は、僅か十数秒である。そして、この十数秒間のできごとについての四名の供述は、転々として且つ相互にもくいちがつている。

そして、例えば前に述べたような近藤の供述に現われるすべての出来事をこの十数秒間中に行うことは到底物理的に不可能でもある。

原判決は、これらの矛盾し変化する供述のどの部分を措信し、どの部分を証拠としたのか。又、近藤がふり返つた回数、藤沢の発言の回数、滝沢との会話の内容を、どのような事実として認定したのか。

藤沢が「構わないからやつちやえ等と申し向けた」というのは、四名の供述の中に現われる何回目を指して云つているのか。

あの一連の出来事のうち、どの段階で「共謀」が成立したとしているのか。

「共謀」が成立してから「前記速度のまま、「疾走」した距離は何米位と考えているのであろうか。

それらが、この簡単な原判決の判示では全く不明である。そして、前記の僅か百二、三十米、十数秒という限定の中で問題を検討すると、その「共謀」成立の段階についての認定如何では、例えば、原審検証調書第四見取図記載の(ハ)点―「近藤が車をとめてたたいてしまえといつたら藤沢がたたくのはまずいからこのまま行つちやえと云つたという位置―を共謀成立の地点とすれば、「敢えて疾走」した距離は、たかが五、六十米約二秒そこそこというナンセンスな結果になるのである。

原判決は、このような矛盾する証拠を厳格に検討することなく、杜撰、且つ大まかに、判示のような作文をしたのであつて、これは厳格な採証にもとずかない重大な事実の誤認というべく、且つ余りにも杜撰な審理の不尽といわなければならない。(その余の控訴趣意は省略する)

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